SMとDVのびみょーな境目〜「銃爪」

昔、ツイストの「銃爪」が大好きであった。・・・「クサい」と言われようが、「演歌ロック」と言われようが、あの世良正則のノリが大好きであった時期があった。

あれから1/4世紀以上経って。

その頃、「要するに、あれは初めて日本に生まれたSMロックなのだ。・・・それまでの日本には、せんずりロックしか無かったのだ」という趣旨のことを、漸く論理だてて書けるようになった。

つまりですね〜。エロい話にいきなり滑り込みますが、SMマニアというものにも色々あって、相手の都合を考えないSというものは、「通」の間では、「愛」を知らない情けのない奴、もっとはっきり言えば、「それDVと同じだから、一人でやってればいいんじゃない」という事になるのですよ。(これ、他人の実発言。)

ですが。ツイスト以前の日本のロックと言うのは、情けないことに、全部この類だったような気が、私はするんざます。

DVというのは、所謂「共依存」であったりする訳である。で、「共依存」と言うのは、「相手を自分の一部と見做す事」であったりする。あの、矢沢の栄ちゃんですら、いやジュリーですら、どうもこの境地から、一歩も抜け出していないように、私には思えるのである。・・・つまり、はっきり言ってしまうと、女を自分のオナホールとして見ている世界観の持主に見えてしまうのである。

ところが、ツイストの、いやSMの世界(「今夜こそお前を落として見せる〜チャララララ」に代表される)と言うものには、非常に原始的な形ではあるけれど、「他者」というものが、(かなりおぼろげではあるが・・・)確かに存在するのである。

早い話が。いくら男性が(女性でもいいけど)「従いなさい!」と言ったところで、KYであれば女性は(男性でもいいけど)「はい、ご主人様」とは言わない。あくまで、SMというのは、相手あっての「プレイ」であるから、「レイプ」との間には、微妙で深い河があったりする。

つまり、きわめて曖昧な精神ではあるけれども、「他者」の認識のないところに、SMプレイと言うのは成り立たない。(ま、この辺を勘違いしているやり逃げ魔、と言うのもいくらでもいそうではありますが・・・)

どうも、今回は終始危ない話になって申し訳ないけれど、(ごめんなさい、)世良正則の偉いところは、30年前に、この境地をロックにして成功したところだと思います。フロイト式に言うと、「肛門性欲の目覚め」とでも言うべきものでしょうか。