社会的足枷としての愛〜「愛なんかいらねー」

ブロ友の、ノナジュンさんのお薦めで、絲山秋子の「ニート」という短編集を読んだ。・・・特に、巻末の「愛なんかいらねー」を読んで、自分はだいぶ楽になった。

この、2人の男女の間に「愛」が無いわけではないのだろう。・・・しかし、普通男が女を愛すると言う時、それは女のために金を稼ぎたいと思う、あるいは実際に稼ぐと言うことである。逆に、女が男を愛すると言う時、それは男の身の回りの世話をして、愚痴を聞いてやるという事である。

絲山秋子の世界の住人は、この社会的愛から自由だ。

ニート」では、文字通りのニート男を「私」が養うのであるし、更に後日談の「2+1」では、「私」は、「キミ」を愛してはいないが、「キミ」の、「洗濯物がいつの間にか畳んであることだったり、(中略)大好きなサンドウィッチを買ってきてくれることだったり、ラーメンを食べている時、スープを掬ったれんげを差し出すことだったり」という「さりげない好意」に、打たれて生活の面倒を、見ているのだった。

で、「私」は言う。

「つくづく私は金の話が好きになったものだ」と。

これはまぁ、はっきり言えば男女関係が逆転している訳だが、「私」はそれを屁とも思わない。「愛なんかいらねー」では、その代わり「彼女」は肛門を凌辱されるわけだが、そこにもどこかに男に対する哀切な同情が混じっている。

別に、女に生まれたから、女としての「社会的愛」を、実践しなければいけないと、決まった訳ではないのだ。逆もしかり。

そう、思ったらいや考えたら、自分はすーっと楽になった。・・・呼吸が自由に出来るようになった。

社会的愛とは、文字通り社会を壊さないための、精神的足枷だ。