母なる存在の否定〜「羅陵王」

あまり、この作品自体と関係ないレビューの題名になってしまったかも知れないが、どうか毎度お許しを。

この作品の主人公、トゥネは、外見は小娘だが、実際は200才を過ぎていると言う、老練な政治家であるという設定になっている。・・・厳密に言うと、主人公はモルテスという野心たっぷりの男であるかも知れないが、彼はいわゆる狂言回しとも言える。で、最期にトゥネが、彼にすったもんだの政闘のあげく、和解として彼に身体を委ねて息絶える、というところで話は終わる。

こうして、書いてみると、奇奇怪怪のストーリーであるがしかし、そこは天才佐藤史生の筆才で、実に爽快なSFになっている。

・・・これを読んで、佐藤史生と言う女性の独自性について深く考え込んでいたのだが、彼女の飛びぬけた頭の良さも然ることながら、どこかに「現代社会の否定」が、そのテーマの根本に根深くあるような気がする。

これは、例えば森脇真末味(彼女もかなりに秀でた作家ではあると思うが・・・)の、ロック性などを、もっと深く深く凌駕した、哲学的とも言える、生と性と死に対する、深い疑問で満たされているように思える。

この、作品集の後の方に収録されている「タオピ」という短編で、「公平や平等は世間には存在しない。それは、自分がそういうふうにするものなのよ」という科白が出てくるが、哀しいかな、これは真実だろう。

・・・真実を、声高く述べる作家は、得てしてその社会から迫害されるものだが、佐藤史生も、最近ばったりと筆を折っている。惜しい事だ。しかし、作品集すら出ていない寡筆の作家であるが、ほぼ言いたい事はこの「羅陵王」で書きつくしてしまったのだろう。何か、そんな風に思える。

で。この作品集の最後に収録されている「緑柱庭園〜エメラルドガーデン」が、ちょっと凄まじすぎて、私も読解に未だ耐えないのだが、結局彼女が戦い続けたのは、多くの少女漫画家と違って、「父なる神話」ではなく、「母なる神話」であったように何か思える。

母が娘を愛するとは限らない。何のためらいもなく、堕胎する女も世間には多くいる。・・・そういう事をはっきりいう事自体が、タブーなのであろうが。

最後に、彼女のために「マタイ伝」の言葉を引用して終わりにしたい。

「私の母とは、誰の事か。私の兄弟とは、誰の事か。天にいます、私の父のみこころを行なう者は、誰でも、私の姉妹であり、兄弟であり、また母なのである。」