浮気と言うアディクション〜「すこしだけ意地悪な告白」

私は、結婚と言うものをした事がない。よって、浮気と言うものについて語る資格も本来ないのだが、この作品を読んで、少し書いてみる気になった。

「浮気」というのは、要するに一種のアルコールと同じであるらしい。・・・最初、よく働きながら、しかも家庭を持って、タフな事が出来る人種がいるなぁと感心(!?)していたのだが、どうやらそうではなくて、世間には、世渡りが上手くて、であるが故に逆に「浮気」相手以外との人間関係が極めて希薄で、で、後ろめたさとか他人と一瞬、一心同体になれるという快感のゆえに、「浮気」を積み重ねるが、基本である「職場」とか「家族」は、絶対捨てたくないという、ずるい人種が存在するんだなと、段々分かってきた。

これは、この作品集の後の方に収録されている「ソルフェージュ」などを読んでも、感じる事だが、背徳の恋と言うのは、日常的な恋と比べるとすぐイっちゃうものなのですね。(知らないけど。)つまり、よしながふみの世界と言うのは、基本、浮気がアデイクションになったもんなんだなと、ようやく気づいてきました。(これは、「ジェラールとジャック」などでも、あまり変わらないように思える。)

早い話、「浮気」の世界に、「SEX」はあっても基本的に、相手に対する思いやりとか、一人の人間として遇する、という観念はないのですね。・・・と、何かクリスチャンのようなことを書いてしまいましたが、より正確に言うと、「相手に対する深い愛情」はあっても、「別の人間に対するものとしての責任感」はやはりない状態であるような気がしないでもないですねぇ。(それはそうだろう。アルコールを、「自分とは別の存在」として認める酔っ払いなんていないだろう。)

なんか、思わずややこしい事を書いてしまいましたが、よしながふみは、教師と生徒の浮気を描いた「フラワー・オブ・ライフ」に至って初めて、いかに「浮気」で、相手が傷つくか、という、まぁ当たり前と言えば当たり前の想像力に、体で辿り着いたようにさえ思える。・・・「フラワー」の、真島というキャラクターが登場するまで、よしながふみの世界に「他者」は存在しなかった。

「他者」が存在しない世界とは、ようするに母親離れしていない世界観の持ち主、ということでもある。「フラワー」の主人公、春太郎は、物語の最後の最後で、母親から決別して、他人のために「嘘」をつくことを覚える。あくまで、自分のためではなく他人のために。

・・・前置きが長くなりましたが、結局「浮気」する人と言うのは、自分のための嘘はつけても、他人のための嘘が本当にはつけないのですね。だから、この短編には、「意地悪な」という副題がついているのだろう。