ベトナムの「回復」〜「ノルウェイの森・仏ベトナム版」

映画「ノルウェイの森」を見て、どうしても考えざるを得なかった事がある。

それはずばり、ワタナベ君が、直子を抱いた事はよかったのか悪かったのかと言う点である。

普通に考えれば、これは直子の閉ざされた心が、外へ開いて行くひとつのチャンスでもあったのかも知れない。・・・少なくとも、原作を普通に読んだ人間はそう感じることだろう。

さなぎのように閉ざされた、病んだ心にとって、「レイプ(・・・この場合は一応和姦であるが)する」と言うのは、ひとつの日本的教育のあり方である。・・・それは、鎖国日本を黒船が無理やり切り開いた時からの、歴史的正義といってよい。

ところが。・・・映画を見る限りでは、直子は、ワタナベとの関係で、いよいよ病んでいったようにしか見えないのである。

ここに、私はトラン・アン・ユン監督の一種の反骨精神を見たような気がおぼろげにした。

言うまでもなく、ベトナムアメリカに蹂躙される事で、精神的に病んで行った国である。・・・我々(と、括っていいのかどうかいささか疑問だが)日本人は、中国の支配下にある事、つまり「女」であることに、かなり慣れていた国と言える。・・・それでも、完全に日本がアメリカの「女」となり、また、なった後には、様々な国内的狂気があったことは周知の上であろう。

ところが、直子(ここでは、便宜的にイコールベトナム、としておこう)は、どうも日本ほどの成熟した「女」でないかのように、この映画では描かれているのである。

直子は、肉体的には20才だが、その精神年齢は、正直このスクリーン上では、小学生くらいにしか見えないのだ。・・・もし、ワタナベがそういう直子に成人儀式をしたとなれば、それはもう、「和姦の形をとったレイプ」に他ならない。・・・直子の心が弱いとか強いとか、そういう問題ではない。

アメリカと言う国が、そしてそれに続く日本が、今や世界中を「レイプ=教育」することに必死になっている現在、トラン・アン・ユン監督は、その姿にひとつの警告を発しているように見えた、というのは深読みしすぎだろうか。

いかなる人間も、自分の法で他人を裁く事は出来ないように、日本がその基準でベトナムを裁く事も、同情する事もお角違いでしかないだろう。・・・その事を、この映画は暗に訴えているように思えた。