おかん殺し

親子の和解、というのはひとつのドラマになる。・・・特に日本の小説のテーマには多いように思う。

しかし。

「和解」ってしなくちゃいけないもんなんだろうか?

私は現在、母親との和解、どころか接触自体をドクターからもカウンセラーからもきつく止められているのでそもそも無理な訳であるが、実は「グリーフワーク」というものまで止められている。いかなるものかというと、心の中で両親を許す作業である。「君がやると君自身が壊れるから」と、皆は言う。・・・自分でもそう思う。

そもそも。

シンデレラが、あるいは白雪姫がラプンツェルが大きくなって継母のところに和解に行きました、という結末を聞いたことがない。要するに、西欧で女性が成長するために母殺しと言うのは当たり前のことなのだろう。(よく知らないけど)

しかし、日本で「おかん」というものを否定したら「あかん」のである。

いくら「おかん」はこわい、と言ってもそれは怪談にすらならない気がする。

話はちょっと飛ぶが、先日「ニシノユキヒコの夢と冒険」という本を読んだ。ニシノユキヒコはすべての日本の男の原型である、というような解説を読んでぞおっとなった。

ニシノユキヒコは、要するに女を口説いて愛されるけれども、ついに一度も自分から女を愛したことがない、というまぁ一言でいえばそういう人物である。日本の男ってそうだろうなと私も思う。

何でかと言うと、結局日本の男は「おかん殺し」をしないからだ。・・・女に求めているのは、愛してくれることと毎日の飯を作ってくれることなんだなぁと、私は最近気づき始めた。

自分から女と言う「人間」を求める日本の男はいない。いたら「きちがい」と呼ばれるだけだろう。それほどに、「おかん」から愛された、ご飯を貰った甘い懐かしい(げげげ)記憶に皆帰りたいのだと思う。