「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」について思う事、少々

村上春樹の最新作である。

正直、彼がこれからどこへ向かうのかはよくわからないけれども、自分的に多崎つくるという人物に対して少々思うことは、あまりにも脆弱な気がすると言う事だ。

彼は、一応死んでいる訳ではなく、仕事をして生きている訳だから脆弱と言う言葉はやや不適当なのかも知れないが、この小説でつくるがしていることが本当の意味の「巡礼の旅」とは私には思えない部分がある。

まず、この旅のシナリオは恋人(?)である沙羅が全ての脚本を書いていることであって、彼自身が苦労して、赤・青・白・黒のその後を調べ上げている訳ではない。むろん、物理的に移動して、最終的な真実を確かめているのは事実だけれども、その恩義に対して、つくるは沙羅に対して殆ど何もしていない。

記憶と言うものは、ただ過去にそこにあるから記憶なのではない。ある時、人がつよい「念」を持って何かを成し遂げた時それは本物の記憶になる。しかし、つくるにはこの「念」(と言って悪ければ意志)というものが決定的に剥落しているような気がする。

アカ、こと赤松慶は、強烈な努力をして、成功した自己啓発セミナーという事業を成し遂げているし、アオ、こと青海悦夫は精神統一が得意で、車のセールスマンとして家庭を持ち成功している。シロ、こと白根柚木はノイローゼになって不幸な事件に遭い、もはやこの世にいない。クロ、こと黒埜恵理は柚木の世話をした後、陶芸と言う道に目覚めて外国人と結婚しフィンランドに住む聡明な女性である。

ところが、多崎つくるには何もないようなのだ。一見、充実して見える彼には駅を作るという仕事と、過去に付き合った数人のガールフレンドを除いては何もない。

それは彼が二十の時に酷く傷ついて疎外されたからであるとは言える。

が、その疎外から立ち直るほどに凶暴な強い意思と言うものが、あるいはつくるの中から何か傷がきちんと引きずり出されて癒やされている状態が、この小説を通じて私には感じ取れなかった。

回復とはきれいごとではなく、血を流すが如くに苦しいものでもあるし、またそういう代償を払って、人間が現実に生き始めると言う肉躍る劇でもある筈だ。

つくるは沙羅を手に入れようとしない。というよりおそらくは沙羅の方から彼を慰撫してくれるのを待っているのだろう。しかし、現実の人間関係と言うのはギブアンドテイクなのである。・・・彼の方から彼女に何も与えないと言うスタンスを取り続けるのなら、優しい沙羅も早晩彼の元を去ってゆくだろう。

その喪失につくるはあまりに鈍感である気がするのだ。鈍感と言うよりおそらくは感情を否認しているのだろう。

まずそこから立ち直ることが、村上春樹が真の小説を書く上で真っ先に必要なものであるように思う。