「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の不安について

今日、電車の中の広告を見ていたら、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」が既に100万部を突破しているらしい。

もちろん、その中には熱烈な「ハルキスト」もいるだろうし、宣伝につられて買いましたと言う人もいるだろうし、嫌いだけどなんでか買いましたと言う人も当然いるだろう。

しかし、何はともあれ、これだけの販売数を誇ると言う事は、それが肯定的であれ否定的であれ、「多崎つくる」あるいは村上春樹と言う作家に対する関心度の高さを示していると言っていいだろう。

実際に、「色彩を持たない〜」を読んでみると、多崎つくるはかなりのダメ男である。・・・死んでいるか生きているかわからない時間を15年間過ごしてきたと言う。その行動も、相当に病的と言えばそうだし、突っ込みどころ満載と言えばまさしくそうである。

にも、関わらずアマゾンの書評で見た限りでは、この作品に対する好感度は、甲乙半々と言った印象であった。

いったい。

我々は、大体において、皆が普通に健康に当たり前に生きていると疑いもなく思って、毎日を過ごしているわけではあるが、この「色彩を持たない〜」は、そういう常識を覆す力を持った作品なのかも知れない。

皆とは何なのか、普通とは何なのか、健康とはいったい何であるのか。

むろん、そういう事に当たり前の確信を持った人は「多崎つくる」という人物にいわれのない不愉快を感じるだろう。・・・しかし、繰り返すようだがこの作品がベストセラーになるという事実は、単に宣伝うんぬんだけの問題ではないと私は思う。

私は、いやこの作品に惹きつけられる人々はおそらく、自分で思っているより遥かに病んだ部分を抱えながら生きているのに違いない。・・・現代とはそういう時代であるのか、それとも健康とは意外に、限定された概念であるのか。

そういう不安な疑問を浮上させる、村上春樹は危険と言えばきわめて危険な作家である。