本当のこと

時々、支援所にいて憂鬱になる瞬間がある。

私のいる支援所にいる大抵の子は、いわゆる引きこもりに近い子たちである。・・・支援所に来て、仕事らしきものができるだけ、本当の引きこもりと言うのとは少し違うのだろうが、それでも皆二〜四時間支援所で作業をするとまた家に帰ってゆく。注をつけておくとそのうちの半数以上が、三十代四十代である。

問題は、その子たちに母親が大抵お弁当を作って持たせていることだ。それだけならまだいいのだが、そのお弁当を食べている子たちに向かってスタッフが、「いい親御さんだから感謝しなくちゃだめよ」といつも言う事だ。

私が思うに、それは本当に愛情なんだろうか。

親の子どもに対する愛情と言うのは、子どもが自分たちがいなくなっても生きて行けるように手助けすることではないんだろうか。飯炊きを覚えさせ、洗濯が自分でできるように教え、掃除と片付けをするようにしつけることではないんだろうか。

むろん、「この子は病気だから、それができない。だから代わりにお弁当を作ってあげるのがやさしさ」という返答もあるだろう。・・・しかし、今、私の住んでいる街には少なくともお弁当を買えるコンビニは腐るほどあるのだ。

そういう親御さんの内心をよく聞いてみると、「私たちが死んだら、よくて施設行きか病院に一生入院するか、生活保護はせめて受けられるだろう」と言う。・・・しかし生活保護を受けて一人暮らしして、その子がお米が研げるかどうかすら考えていない、むろん自分たちでは米の研ぎ方など教えもしないし、洗濯機すら回させないことになっている場合もある。

実は、他ならぬ我が家もそうだった。

そういう偽善に対して、「親御さんに感謝しなさい」とか、「いい親御さんよ」とか、「可愛くってしょうがないのよね、あなたが」と嘘をつくのはもうやめにしないか。

あなたの親は、あなたの本当の幸せなど何にも考えちゃいないよ。

そう言いかけて、いつも私は支援所で居心地悪く口をつぐむ。「さわらぬ神に祟りなし」と言う諺を思い出して。

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」について思う事、少々

村上春樹の最新作である。

正直、彼がこれからどこへ向かうのかはよくわからないけれども、自分的に多崎つくるという人物に対して少々思うことは、あまりにも脆弱な気がすると言う事だ。

彼は、一応死んでいる訳ではなく、仕事をして生きている訳だから脆弱と言う言葉はやや不適当なのかも知れないが、この小説でつくるがしていることが本当の意味の「巡礼の旅」とは私には思えない部分がある。

まず、この旅のシナリオは恋人(?)である沙羅が全ての脚本を書いていることであって、彼自身が苦労して、赤・青・白・黒のその後を調べ上げている訳ではない。むろん、物理的に移動して、最終的な真実を確かめているのは事実だけれども、その恩義に対して、つくるは沙羅に対して殆ど何もしていない。

記憶と言うものは、ただ過去にそこにあるから記憶なのではない。ある時、人がつよい「念」を持って何かを成し遂げた時それは本物の記憶になる。しかし、つくるにはこの「念」(と言って悪ければ意志)というものが決定的に剥落しているような気がする。

アカ、こと赤松慶は、強烈な努力をして、成功した自己啓発セミナーという事業を成し遂げているし、アオ、こと青海悦夫は精神統一が得意で、車のセールスマンとして家庭を持ち成功している。シロ、こと白根柚木はノイローゼになって不幸な事件に遭い、もはやこの世にいない。クロ、こと黒埜恵理は柚木の世話をした後、陶芸と言う道に目覚めて外国人と結婚しフィンランドに住む聡明な女性である。

ところが、多崎つくるには何もないようなのだ。一見、充実して見える彼には駅を作るという仕事と、過去に付き合った数人のガールフレンドを除いては何もない。

それは彼が二十の時に酷く傷ついて疎外されたからであるとは言える。

が、その疎外から立ち直るほどに凶暴な強い意思と言うものが、あるいはつくるの中から何か傷がきちんと引きずり出されて癒やされている状態が、この小説を通じて私には感じ取れなかった。

回復とはきれいごとではなく、血を流すが如くに苦しいものでもあるし、またそういう代償を払って、人間が現実に生き始めると言う肉躍る劇でもある筈だ。

つくるは沙羅を手に入れようとしない。というよりおそらくは沙羅の方から彼を慰撫してくれるのを待っているのだろう。しかし、現実の人間関係と言うのはギブアンドテイクなのである。・・・彼の方から彼女に何も与えないと言うスタンスを取り続けるのなら、優しい沙羅も早晩彼の元を去ってゆくだろう。

その喪失につくるはあまりに鈍感である気がするのだ。鈍感と言うよりおそらくは感情を否認しているのだろう。

まずそこから立ち直ることが、村上春樹が真の小説を書く上で真っ先に必要なものであるように思う。

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を初読して

しかし、これは不吉な作品である。

1Q84」をbook3まで読んだとき、私は何故か三島由紀夫の「豊饒の海」が連想されてならなかった。したがって、もしbook4が発売されるならば、それは聖書的世界に、さらに日本性を強く打ちこんだものになるだろうとも思った。

その予感は、ある意味当たったと言えると思う。

現代日本に生きる我々は、仏教とキリスト教に挟み撃ちされて生きている。

・・・しかし、春樹氏の場合、(出生のためなのか?)理由はよくわからないけれども、
この作品で、無意識に仏教世界への回帰を果たしているように思える。

そこにはもはや、現代文学が問題とするビルドゥングスと言ったような問題は、存在しないかのようにすら思える。

ただ、人は人として、ものはものとして、性は性としてそこにあるだけなのだった。

もし、読者が赤、青、白、黒、そして沙羅の仏教的意味合いを解読できないのであれば、この作品の面白さはわからないだろうと思う。

この作品は、ミステリーとしては不十分と言うか破綻しているけれども、そもそも日本において、ミステリーとはなんぞや?とすら思わせる「怪談」なのである。

が、ただよくない予感がするのは、才能に疲れたピアニスト緑川が、「あと1か月の命だ」とはっきり予告するくだりと、最後に沙羅に去られた(?)主人公が死を思うシーンである。

この「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」が、村上春樹のスワン・ソングとならないよう心から祈る。

五月

彼女は昨日恋人と喧嘩をした
それはとても悲しく思えて彼女はお風呂で泣いた
それから初夏の化粧をオイルで落とした後
深夜に小説にその経緯をつらつらと書いた
彼女は朝起きる
それから白いシャツを洗濯する
匂いのきつい柔軟剤をたくさん入れて
それから全粒粉のパンとベーコンエッグとルッコラのサラダで朝食にする
彼女は駅への道を高いヒールでカツカツと歩いてゆく
ビル風の吹くホームに立つ
そして自販機でソルティライチの瓶を買う
電車の窓から見える欅が鮮やかだ
彼女は講座で小説を朗読する
それからティールームで冷えた紅茶を飲む
家に帰ると
冷やし中華を作りメロンのシャーベットを添える
彼女は笑ったり怒ったり泣き出したりする
夜はまたPCに向かう
それからふっと目をあげて天井を見る
先週にカウンセラーが夜は早く寝なさいと言った
道理である
彼女は寝る
一人で起きる
たまに恋人のペニスをくわえる夜もある
彼女は掃除機をかけてクイックルワイパーを押す
それから観葉植物に水やりをする
明日はブライアン・イーノのCDを買おう
人生は何かを穿ちつづけるようなものだ
生きている限り
死に近づき続ける限り
今日一日を
彼女は歩く
歩き続ける

問題児のプロたち

思い出すと、私が回復途上にいるとき、助けてくれたのは「問題児のプロたち」だった。

こう書くと、「問題児を扱うプロなの?」と誤解されそうだがそうではない。・・・むしろ逆で、本当の援助職のプロと言われている範疇からはみだした、「援助職の中のはみ出し者」達であった。

彼ら彼女らは、私との関わりにおいて、きちんとした「他人」としての境界線を引かなかった。時には押しつけがましいまでに、私に回復を強いてきた。最初、お世話になっていた介護ヘルパーさんもそうだったし、通いつけのクリニックのPSWもそうだった。ネットで出会った精神科医もそうだった。

そこで(そういう関わりの中で、)私は、自分の両親を客観視することを学んだ。

そういう「問題児のプロたち」(「プロの中の問題児」と言った方が適切なのかも知れない)は、被援助者との衝突を恐れなかったし、自分が、私との関わり方について上司から(あるいは私の両親から)責められても、一向平気だった。

そこにあったのは、「信念」と言うのもあったが、究極一種の「親心」であったのだと思う。

いつか、あるブロガーさんに言われた事だが、「世間様と言うのは、あなたのしたことであなたの親兄弟を責める人たちのことだ。世間様に人は喰わせて貰っている」と。

「問題児のプロたち」は、今は世間から消えてなくなりつつある「世間様」であったのだ。

そのことを、私は忘れないようにしようと思っている。

銀河が終わる日

今夜
わたしは
青春が
ある意味
おわったような気がしている
憧れとか
夢とか
飴細工とか
そういうもので気持ちがいっぱいで
自分が
からっぽだったのが
少しずつ
少しずつ
現実で埋まってゆくような……
わたしが好きになった人たちはみんな
Mr.childrenだった
わかってはいた
どっかで
いつまでたっても
自分に
責任の取れない男たち
でも私は
大人になった
みんな孤独で
みんなさみしい
人間は
いつか
死ぬんです
太陽が
50億年後には
燃え尽き
銀河も
いつかはその渦を
ほどくように

3.11とブログとカネとミネルバの梟と。

最近思うのだが、ブログ界が低調である。・・・特に3.11以来。

要するに、本当の意味で「不透明な時代」が到来しているのだろう。東京大震災は起きるかも知らんし、原発はもう1個くらい爆発するかも知らんし、(あまり考えたくないけど、)富士山も噴火するかも知れない。誰が悪いのかは凡人にはわからない。先は見えない。

要するに、「まとまった意見」というものを、素人がネットで気軽に発信することが、とてもむつかしい時代になったと思う。・・・だから、皆「つぶやき」であるツイッターに逃げたり、「仲良し」であるフェイスブックで集ったりするように変化してきたのだろう。

そんな中で、私が今注目しているのが有料コンテンツ「ケイクス」である。

やまもといちろう氏(言うも野暮だが元・切込隊長)の結婚と結婚後の話は、号泣なくして読めなかったし、最近「考える生き方」を上梓したfinalvent氏の「新しい『古典』を読む」は、おおおと三度四度、読み返すたびに思うほど興味深い。

要するに。

逆に言うと、今金を払わないで読めるコンテンツと言うものが心底面白くない。(注・自分の文章含む、である。)

ミネルバの梟は夜はばたく」と昔の人は言ったが、要するに今やっと、金を払って読むに値する芸術とか評論と言うものが、ネットでも花開きつつあるのかも知れない。

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20130225/1361754766