少しずつ嘘をつくと言う事〜「ノルウェイの森」

この秋、公開されると言う「ノルウェイの森」を、ちょこっとだけ再読した。・・・それで、思ったこと。
この小説では、皆が少しずつ嘘をついている。例えば、永沢君のフィアンセ(?)であったハツミさん。
彼女は、永沢君の強さや、お金や、出世しそうな所が好きなんだろう。そういう男を、古風にキープして、浮気には目を瞑ってやり過ごして行きたかったのだろう。でも、彼女は自分の嘘に耐えられなくなって、ある時自殺してしまう。
それから、ワタナベ君。彼は、本当は誰とも関わりたくないのだろう。でも、孤独には耐えられない。直子のようにはなりたくない。本当は、永沢君のように強く、卑怯でありたい。でも、出来ない。
この小説の中で、不満を垂れ流しながら「生きて」いるのは緑だけだ。ワタナベ君も直子もレイコさんも(そして多分永沢君も)どこかで死んでしまいたいと思っている。だけど、ほんの少しずつ嘘をつきながら、お互いを攻撃しないことで、かろうじてやり過ごしている。
緑は言う。「私にはわかっているのよ。(中略)ロクでもないところでぼちぼちと生きていくしかないんだっていうことが」おそらく永沢にも、それは(全く別の意味で)分かっているのだろう。恵まれた境遇に育った、永沢にとって、この世はおよそ阿呆らしい借り暮らしの場所にすぎないのだろう。・・・そして、努力の方法を知っている彼には、その借り暮らしの場所をもっと向上させることが出来る。
でも、だから永沢は孤独で、多数の人間を喰い荒らしながら、さしたる罪悪感もなく生きているのだろう。
緑は、全く別の意味で、やはり「生」というものを理解している。彼女は、古びた病院で父親の介護をしている。彼女は言う。「大事なのはウンコを片付けるか片づけないかなのよ」
しかし、直子はそういう認識から全く遠いところにいる。ワタナベ君もレイコさんもハツミさんもだ。・・・彼らは「生」の意味も「死」の意味も知らない。
そして、「知らない」ということを、ほんの少しずつ嘘をつくことでやり過ごしている。
彼らは「孤独」ではないけれど、「孤独感」という殻に包まれたさなぎのように私には思える。だから、ある時さしたる動機もなく自殺してしまう。・・・彼らを支えているのは、「今の生活を維持したい」という淡い気持ちだけである。
それが、「死」と「狂気」と「老い」を、世界から排除してしまった、2010年現在の、日本の姿なのかと、ふと思った。